大日本雄弁会講談社編『昭和天覧試合』

旧道場をそのまま再現した野間道場の壇上には、剣道をこよなく愛した5人の男の肖像が掲げられている。

中央の写真は講談社初代社長にして道場創立者である野間清治。

その隣に稽古着姿で寄り添うように立っているのは清治の嫡男、野間恒。やわらかな日差しを浴びて、若者らしくややはにかんだようなその表情には一点の翳りもなく、数年後の昭和13(1938)年秋、2代目社長に就任してわずか1ヵ月足らずで父の後を追うように早逝する悲劇は想像もつかない。

左右の壁に居並ぶのは持田盛二範士、増田真助(本名・貞之輔)範士、望月正房範士。

持田範士、増田範士は清治によって社員兼師範として野間道場に迎えられた名剣士。

望月範士は昭和2年、15歳(以下年齢は数え年)で少年社員として講談社に入社し、野間道場草創期から腕を磨いた剣道部員である。

一見ばらばらな経歴の5人であるが、初代社長以外の4人には際立った共通点がある。

4人は剣道史上もっとも輝かしい昭和天覧試合の優勝者として、永遠にその名を刻まれることになったのである。

周知のとおり、昭和天覧試合は3回開催されている。

昭和4年、昭和天皇御即位を祝う「御大礼記念天覧武道大会」。

昭和9年、皇太子明仁親王殿下誕生を祝う「皇太子殿下御誕生奉祝天覧武道大会」。

昭和15年、皇紀2600年を祝う「紀元二千六百年奉祝天覧武道大会」。

いずれの大会も、宮内省が指名した専門家による「指定選士の部」と、各府県の代表による「府県選士の部」に分かれ、それぞれ予選リーグと決勝トーナメントで優勝を争う形式だった。

つまり天覧試合の優勝者は歴史上6人しか存在せず、そのうち4人が野間道場関係者だったということになる。

右から2人目望月正房、同5人目増田真助
右から2人目望月正房、同5人目増田真助

昭和5年、その前年に天覧試合で優勝した持田範士が野間清治の懇請によって師範兼社員として着任すると、冒頭に紹介した5人の男たちが道場に勢ぞろいし、こんな光景が日常的に見られるようになった。

和服姿の野間清治が上座に陣取り、息子や少年社員たちの稽古ぶりを熱心に見守っている。

46歳の持田師範、まだ30歳の増田師範が元に立ち、22歳の御曹司や、18歳の望月部員が元気いっぱいに打ち込んでいく――。

野間道場に活気がみなぎるこの年5月5日、講談社から1000ページを超える大著が刊行された。

宮内省監修、大日本雄弁会講談社編『昭和天覧試合』。

天覧試合が昭和4年5月4日~5日に開催されてちょうど1年、満を持しての発売だった。講談社図書館に残る現物の奥付を見ると、発売20日後の5月25日で第15版。爆発的な売れ行きだったことがわかる。定価の3円80銭は現在なら1万円に相当するだろう。当然ながら講談社はその後2回の天覧試合も書籍化(書名は『皇太子殿下御誕生奉祝昭和天覧試合』と『紀元二千六百年奉祝昭和天覧試合』。以下、すべて『昭和天覧試合』に統一)、付録の『武道宝鑑』とともに剣道史研究の上でも貴重な資料となっている。

以下、4人の剣士が昭和天皇の前でどんな戦いぶりを見せたのか、3冊の本の詳細な記述に沿ってご紹介しよう。