皇太子殿下御誕生奉祝昭和天覧試合
昭和9年5月4日~5日昭和9年、野間道場は2度の増築を重ねて、稽古場だけで80坪の大道場となっていた。
持田盛二師範の名声を慕って道場には全国から稽古志願者が列をなし、空前の活況を呈している。清治の長男・恒は猛稽古に明け暮れ、26歳の逞しい青年剣士に成長。5歳年下の従弟・森寅雄とともに「野間の二剣士」として剣道界では知らぬ者がない存在となっていた。
寅雄は清治の甥で元々野間姓だったが、清治の母・文の実家である森家再興のため改姓。巣鴨中学に入ると剣道に熱中し、抜群の天稟を開花させて数々の伝説を残すことになる。のちに渡米してフェンシングに出会い、わずか6ヵ月後に全米選手権で準優勝。「タイガー・モリ」として名声を博したことはあまりに有名である。
昭和8年12月23日に皇太子明仁親王が誕生し、奉祝天覧試合の開催が発表されると、全国の武道家は沸き立った。府県選士の部では「野間の二剣士」のどちらかが東京代表として優勝候補の筆頭になるだろうという下馬評がもっぱらだった。
東京予選を制したのは恒。寅雄を含むすべての相手に一本も許さぬ快進撃を見せて、天覧試合に名乗りを上げた。
ここであらためて野間恒の剣道歴をご紹介しておこう。
原園光憲著『野間道場物語』によれば、恒が講談社の庭で父親から剣道の手ほどきを受けたのは7歳のときだった。大正10年7月、清治が音羽の邸に移ると、会社に隣接する大塚警察署の道場に恒を通わせたりもしているが、恒が本格的に剣道を習い出したのは大正12年2月、中山博道範士の有信館に入門してからである。恒自身、『剣道読本』の中で次のように述べている。
私は小学校を卒業した翌年、十五の時から剣道を始めたのでありますが、私の只今非常に残念に思っていることは、なぜ九つか十ぐらいから、尋常三四年ぐらいから始めなかったか、父母からは勧められたのであるが、つい始めなかった。もしあの時分からやり始めたら、どんなに仕合せであったろうと、私は音羽の野間道場に通って来る小学生諸君がめきめき上手になって行くのを見る度に、今更に羨ましく、返す返すも残念で仕方がありません
あれだけ剣道を信奉した清治だったが、恒に稽古を強制したわけではなかった。だが、いったん入門すると恒は剣道に熱中した。
清治は恒の上達と軌を一にするように剣道環境を整えていく。中山博道門下の安部義一、和佐田徹三を社の剣道教師とし、大正14年4月、増田真助を社員兼師範として迎える。そして同年10月に道場を設立。その前後、恒は高野佐三郎の修道学院にもしばしば出向いて指導を仰いでいる。
超一流剣士の指導と猛稽古の甲斐あって、恒の腕はめきめき上達した。昭和4年には大日本武徳会から異例の早さで剣道精錬証が授与され、天覧試合に出場した昭和9年の段位は「錬士六段相当」。府県選士の部の出場者の中で若手といえる年齢にもかかわらず、段位は最上位であった。
舞台は整った。鍛え抜いた恒の心技体を天覧に供する日がやってくる――。
[第1日]
いよいよ待ちに待ったる五月四日となる。
空は紺青色に 廓落 と晴れている。明日に迫る端午の節句を前にして、日本国中到るところ、山の峡にも海の浜にも、鯉幟はためいて、矢車の音からからと鳴る。今日ぞ、砂利敷きつめた大手門外、青嵐、御濠の松の翠を吹いて、日本晴の上天気、晴の試合に登場する選士達の列は、威儀を正して粛々として入場した。(中略)
正午前七時三十分。
顧問鈴木荘六大将、西園寺八郎氏、大塚惟精氏、鹿児島虎雄委員長、白井皇宮警察部長以下役員一同、審判員高野佐三郎範士(剣道)、山下義韶範士(柔道)以下選士一同、試合場正面に三列に並び、榊田順蔵警視号令のもとに、先ず玉座に向って恭しく奉拝を終れば、忽ち、試合開始の合図の太鼓が大内山にひびきわたる
予選1次リーグ
この大会の府県選士の部はまず4~5人のリーグ戦で12名が勝ち残り、さらに3人ずつの総当たりを行って準決勝進出の4名を決める方式が採用された。
恒は第三部で4人の相手と戦うことになる。
この部は、いろいろな意味合で、はじめから注目されていた。警察官が三人居る、梶川、中条、石原選士がそれ。広島の相原選士は税務署吏員、東京の野間選士は、出版業である。(中略)更に又、優勝候補者が二人までも、その名を連ねて居る。その一人は、梶川選士、他の一人は野間選士である
恒が初戦で相対したのは沖縄の石原昌直。恒は一本目飛び込み小手、二本目は面抜き胴で快勝し、“満場、みなこの絶技に敬服した”。
2戦目は広島の相原勝雄に対して面2本で圧勝。
続いては三重の中条薫。
野間は、いよいよ落着を見せている、傲らず、乱れず、一刀を正眼に構えて、千年樫の大木の如く、屹然として立つところ、金城鉄壁の構えである。(中略)中条は、二たび、三たび、此の堅塁のベトン(注:コンクリ―トの仏語)に向って、突撃をくりかえしたが、突如、ピュウと唸を生じて、野間の竹刀が、彼の小手に来た。
『しまった』
一本を野間にさずけて、中条はハッとして引き退った。野間は、しずかに陣をととのえ、尚二三合、わたり合ったが、中条の引け際につけ入って、大きくふりかぶった一刀。思いきって、一足ふみこみさま、 戞 として胴に斬込む。防ごうにも防げない早技。果然、野間も亦ここに、三戦三勝して、梶川選士と同点となる
福岡代表の梶川は35歳。志願兵として陸軍に入隊し、稀に見る剣の使い手として知られた。大正10年には陸軍士官学校本科生徒助教となり、高野佐三郎や大島治喜太の指導を受けてさらに腕を上げたという。その後福岡県の警察官となった梶川は面を得意とした。
踏み出せば必ず敵手に斬りつけている豪剣は、向う処敵なく、殊に、面を望んで打ってくる太刀の冴えは、驚くべき神技であって、『梶川の面』と、折紙がついている
恒は173センチ、66キロ。身長、体重ともに梶川をわずかに上回っているがほぼ同じ体格で、ともに錬士。梶川が軍隊の荒稽古で鍛えてきたのに対し、恒は野間道場の猛練習。“どの点からいっても、互角である”。
この強敵を迎えるにあたり、恒は周到に準備をしていた。
野間の陣営、静なる事林の如く、梶川の烈刃、疾きこと風の如く、双方ともおごそかにかまえていた。梶川は、再び得意の面打に行くかと見えたが、この時、彼は気をかえて、野間の小手をねらい、ダッと手元に踏入った。
『ここぞ』野間は、きれいに抜いて、さっと振りかぶって、斬下す太刀風に、強豪梶川の兜はざくりと真二つ。
『面あり、一本』野間、先ず一点をかち得た。(中略)
野間はと見れば、戞々と、竹刀の先で梶川の竹刀の先を右に払い乍ら、機をうかがっている。忽地、野間の右手が刀の柄を離れる。すわ、長刀一揮、左手へ大きく閃いて、野間が最も得意の中の得意とする横面の離れわざ。
ポーン。
申分のない一撃に、あわれ梶川の覇業ならず、野間にして中原に名を成さしむるの機を与えたのである
恒の片手横面は恩師の一人、増田真助譲りの得意技だった。恒は後日、帝国ホテルで盛大に行われた優勝記念祝賀会の謝辞で、梶川に対する秘策を語っている(笛木悌治『私の見た野間清治』)。
梶川さんの身長は私と同じく五尺七寸位で、面を得意とされます。私の一番弱点が面でございます。あちらの得意が面でございますので、非常にこの点を心配致したわけでございます。拝見致して居りますと殆ど隙がありませんが、ただ一つ横面なら打てるかも知れない、横面を打つのが一番よい、梶川さんは一番の強敵であるが、横面で仕止めようと思いました。それには第一回戦で他の人の試合に横面を出すと梶川さんに覚られる心配があるので、他の人には横面を出さず、梶川さんの時に横面を用いようと秘かに策戦を凝らし、その時の至るのを待って居りました
横面だけでなく、ここまでの4戦で恒が放った技はきわめて多彩である。飛び込み小手、面抜き胴、飛び込み胴、ふりかぶっての面、小手抜き面。観客はさぞかし堪能したことだろう。
〇野間 コド― 石原
〇野間 コメ― 相原
〇野間 コド― 中条
〇野間 メメ― 梶川
予選2次リーグ
1次リーグを中段で戦い抜いた恒には、まだ見せていない武器があった。
高野佐三郎は恒の著書『剣道読本』に寄せた序文で次のように書いている。
恒君はもと足がらが得意であった。私は剣道は剣を以て戦うものであるからといって、特に上段の構を勧め『上段は最も尊厳な天の位の構である。勇猛敵を呑む攻撃精神を発揮して戦う構である』というようなことを話してあげた。それからというものは、この研究に熱中して、素晴しい得意業に仕上げてしまわれた。
あの立派な体格の恒君が、上段に振りかぶったところは、敵をすくめる威厳が十分に具って、威風堂々という言葉が、そのまま当嵌る見事な姿であった
次の試合で恒の上段はベールを脱ぐことになる。
2次リーグの1戦目、相手は早稲田大学主将時代から二刀の名手として知られた志田三郎だった。
志田は“大刀と小刀をガッキと組合せた”得意の乱十字の構え。対する恒は正眼にとり、開始1分が過ぎるまで無音のまま時間が流れた。
機を見て恒が左小手に打ち込むものの、志田は鍔元で受け止めて崩れない。
攻めあぐねたか、恒は竹刀を右脇にとる脇構えに変化して相手を監視しつつ、しきりに小首をかしげるしぐさ。試合時間の5分が近づいたころ――。
野間は、静寂を破って驀地、敵陣に迫った。
突き出した片手突の離れ技。志田は、一歩とんと 後退 って、危くこれを外し、依然として、乱十字の構は、くずれ立つ様子が見えなかった。(中略)
野間は、ここに至って、いよいよ最後の一撃に出ようとして、左諸手上段にかまえた。これ、烈火の位である。正眼の構でも、脇構でも、志田の陣を破る事が出来なかったので、不惜身命の覚悟をしたと見える。今し、野間は、上段にふりかぶって、しきりに、志田の面を脅かしている、ところが、志田は、此の面にくる敵の一刀を、小刀でうけ流して、大刀をもって、相手の胴に斬り込むのが、彼の十八番の手である。野間が、これにかかれば、一たまりもなく、二刀の 犠牲 となるのであったが、彼も亦、敏慧である。この志田の得意の手は、悉く看破って居るらしく、容易に打込もうとしない。ただ、隙をうかがっている。志田は、これを防ごうとする心持が働きかけて、小刀がやや上り加減になった。つけ入るのは、此の一刹那。野間が一足踏込むと同時に、
『えいーッ』
必死の気合。上段から振下すと、ポーンという音が、無気味にしずもりかえった場内の雰囲気をかきみだして、道場一ぱいにひびきわたると見れば、逆胴へ一本、いともきれいに『とう』と入った
直後、制限時間がきて試合は恒の一本勝ちとなる。
次の相手は大阪代表の警察官、荻直吉。恒は志田との激戦の疲れも見せず、飛び込み胴と小手抜き面で二本勝ちを収め、ここまで6試合、相手に一本も許さないまま準決勝に駒を進めた。
〇野間 ド― 志田三郎
〇野間 ドメ― 荻直吉
[第2日]
いよいよ準決勝。相手は神奈川の警察官で小手の名手、瀬下喜一である。
恒は準決勝の相手を松本敏夫と予想していた(帝国ホテルでの謝辞)。松本は関西学院出身で、優勝候補の一角。戦後範士九段となり、剣道の理念制定委員長を務めたことで知られる。
その松本に対し、瀬下は得意の出小手2本で快勝し、勝ち名乗りを上げた。
この試合を見ていた恒は、 “あの籠手に気を付けねばならぬと非常に心配しまして、私は瀬下さんを心配した余り、藤本さんに就いての研究が不十分であった”(謝辞) と述べている。
準々決勝
瀬下は立ち上がりざま、ススッと引いて恒の面を誘う。小手を警戒する恒はもちろん誘いに乗らない。
こちらは元々瀬下さんの籠手を恐れて居るので、それを覚ると籠手を充分囲ってそのままつけ入りました。籠手を打ってお出になりましたが、籠手を囲って居りますので一本になりません(謝辞)
小手が決まらないと見るや、瀬下は渾身の奇襲に出た。左足を一歩踏み出し、恒のお株を奪うような横面――。
だが、野間は、攻防両乍ら全く、突撃して何の手応えもなかった。却って、野間のため、逆胴をかえされた。
『胴あり、二本目』
野間、胴を先取して、凱歌をあげた。勝に乗じて、野間は、横面に打込まんずるものと、つと進み出た瞬間、機を見るに敏慧なる瀬下逃さじとばかり、つけ込んで、
『ええい』
得意の出小手が鮮やかに一本決った。
偉なるかな、瀬下、此の一戦に至るまで、掠り傷一つうけなかった野間に対して、見事に一撃を加えた事は彼の戦功にあげねばならない。しかも野間は、初より此の出小手を警戒していたのであるが、ついに及ばず、一本申しうけてしまった
執拗に小手を攻める瀬下に対し、恒は一気に間合いを詰めて勝負に出た。
野間は敵の剣尖を左右に払いのけ乍ら、た、たッ……と軍を進めた。それでも尚、未だ足らずと見てか、もう一歩、近間に迫った刹那、巧みに体をそらして、右に返した面、スポリと入って、
『面あり』
高野範士の声がかかる
〇野間 ドメ―コ 瀬下
決勝
恒とともに決勝戦に駒を進めたのは香川の逆二刀、藤本薫。
藤本は名門・高松中学から早稲田大学に進むも家庭の事情で中退し、父親が局長を務める郵便局で通信事務員として働いていた。
藤本の生涯を描いた労作『昭和の二刀流ビルマに死す』(南堀英二著)によれば、藤本にとって好都合なことに高松中学には二刀流の伝統があり、しかも剣道部には後に名を成す逸材がそろっていた。1年上には東大時代に全日本学生剣道選手権で優勝し、第5代全日本剣道連盟会長となる大島(旧姓市村)功がいて、同級生には戦後の第1回全日本剣道選手権4位、第3回準優勝と活躍した植田一(範士九段)がいた。中学の練習を終えると藤本たちは武徳会香川支部の稽古に出向き、一の父である植田平太郎範士の教えを受けたという。そんな猛稽古の甲斐あって、昭和6年の全日本中等学校剣道大会で高松中学は決勝リーグまで勝ち進んだ。藤本たちの前に立ちはだかったのは恒の従弟、森寅雄を擁する強豪・巣鴨中学。藤本は2度にわたって森寅雄と激戦を演じ、寅雄の片手突きの前に涙をのんだ。
早稲田大学にはすでにOBとなっていた正二刀の志田三郎がいて、天覧試合では奇しくも先輩後輩2人の二刀がそろって野間恒と相見えることとなったわけだ。
恒はこの大会に出場するにあたり、2ヵ条の銘を決めていた。第一に「天下無敵」。第二に「先」。優勝記念会の謝辞で恒はこう述べている。
無敵ということは、天下で一番強いという意味もございましょうが、それよりも、敵もなく我もなく、剣三昧に没入して無念無想になるということが、本当に無敵の心境ではなかろうかと考えます。そうした意味で、傲慢不遜のようでございましたが、第一条は「天下無敵」ということに致したのでございます
第二は「先」というのでございます。(中略)更によく考えて見まするに、動いてから打つのでは既に遅いのではないか、形に出てからでは遅いのではないか、名人達人は形のないものを見、形のないものを悟るというように聞いて居ります。敵が動いたらという動きを見てからでは遅いので、これは敵が動こうが動くまいが、こちらから攻勢にということが、剣道の所謂「先先の先」ということではないかと考えました結果、第二条をただ「先」という一字に致しました。これはこの度の試合に幾分役立ったように感じて居ります
決勝戦の試合開始は午後2時3分。主審・中山博道範士の「勝負三本」という声と同時に藤本は果敢に攻めかかった。
藤本は、野間の技に対して、十分に考究した。彼の言う処によれば、野間は長身なので『面』と打込めば、『おう』と反身になって、これを外そうとする癖がある。此方からつけ入るとすれば、ここだ、即ち野間の陣に接近して、右の小刀をもって、面を脅かせば、野間は、反身になる。その一刹那、野間の臂があがって竹刀も自然あがる。この時胴に隙が出てくる、打つなら、そこだと、こう見たのである。
この日、藤本が、初手から突撃をこころみたのは、此の如き作戦に基いていたのである。今、藤本は、小刀を細かく刻んで、ス、スーッと進む。
『そらーア』
彼一流の掛声と共に、歩、歩、凄気を漂わせて、攻め立てた。
野間、守を堅めて、さっと体を引いた瞬間、藤本、ここぞと大刀一揮、
『ええい』
野間の右胴に一本、彼の計画した通りに鮮かに入った
二本目。
恒の反撃がはじまる。だが面も小手も藤本の二刀に受け流されて決まらない。
藤本の態勢を崩そうとして恒が近間に入り、一度、二度と体当たりを試みるが藤本の構えは乱れず、逆に藤本がぐんぐんと間合いを詰める。
もし、そのままじっとして居れば、当然、野間は打たれるので、野間は陣を引いて、玉座の御前近くに於て、馬首を立直した。
ああ、危機は迫る。野間は、何とするつもりか、此の時しも藤本、如何にしてか、ス、スーッと一歩退ろうとした。打つは、此の機会ぞと、野間、身を沈めて、逆胴を襲えば、みごとに入って、一刀、戞と響を発した。
『胴あり』
と審判の声。
藤本、一本。野間も一本。ここに於て、試合は、最高潮に達した。(中略)
この時、野間もどかしとばかりに、大上段に振りかぶった。愈々のるかそるかの一撃を加えようとする意図らしい。
(得たり)
藤本は、一挙にして、勝敗を決せんと、大刀をもって、野間の小手に斬下した。不十分として、審判、取らず、更に、
『そらーア』
と、気をかえて、打ち込んで来た大刀は、野間の胴を狙ったが、垂に当って、功を成さず。
彼の攻撃、愈々出でて、愈々急である。野間も亦この時、潮合よしと、最後の突撃戦に移り、俄然、攻勢に転じた。ここに於て、戦は、正面衝突となって、喊声、剣声、入りみだれて、死にものぐるいとなる。
野間は、敵の小刀を持って居る右小手に向って、猛撃を加えた。ッ、ッ……と、野間、間近く迫れば、敵は大刀をもって、野間の面をのぞんで打下して来た。この時早く、野間の一剣、躍り入って、刃筋正しく、藤本の面を真向から斬下した。
『面あり』
審判、おごそかに宣して、ついにこの一戦、野間の勝となる。三本目の試合、双方とも十数合の手合せ、戦場を縦横に馳駆して、追いつ追われつして戦うさまは、息のつまるような激しさであった
〇野間 ドメ―ド 藤本
昭和天皇の前で名勝負を演じた二人を待ち受けていた運命は、あまりにも苛酷であった。
天覧試合からわずか4年後の昭和13年11月7日、病に冒された野間恒は30歳の若さでこの世を去った。
さらに4年後の昭和17年3月9日、陸軍中尉となっていた藤本薫はビルマ戦線で戦死を遂げる。享年29。