剣道と野間清治
目次
剣客の血統
講談社初代社長の野間清治は野間道場を創立しただけでなく、群馬県の伊香保、静岡県の伊東、千葉県の東海村(現・いすみ市)に保有した別荘のすべてに道場を併設するほど剣道を重んじた。当時の講談社には14歳から18歳の少年を採用して正社員への道を開く「少年部」という制度があり、少年社員たちは住み込みで働きながら独自の教育を受け、その一環として全員が剣道を学ぶことになっていた。夏や冬には社長自ら長男の恒や少年社員を引き連れて伊香保の別荘に泊まり込み、猛稽古を課したという。
明治11(1878)年生まれの野間清治自身の剣道体験はどんなものだったのか。本人の著書を元にたどってみよう。(以下、本サイトでは戦前の資料を引用するにあたり、旧字・旧仮名・繰り返し符号などは現代の表記に改めた)
〈野間家は上総飯野藩士の家柄で、父好雄はその家の三男に生まれ、江戸に出て、麻布永坂の森要蔵景鎮(かげちか)の道場に、内弟子となって剣道その他を学んだ。
森要蔵は、文武両道に達し、熊本の細川侯の藩士であったが、故あって浪人し、後に飯野藩に仕え、麻布永坂に道場を開いたものであります。門下一千余人と言われておりました。飯野藩へは、月に一、二回麻布の道場から馬上で通ったのだそうですが、「保科家に過ぎたるものが二つあり、表御門に森の要蔵」などと言われておった位で、大分殿様の優遇を受け、一藩の尊敬を集めておったようです。
(中略)私は幼い時、祖父森要蔵の偉かったことや、叔父森寅雄の強かったことや、伯父野間銀次郎の忠烈な話などを、母から常々聞かされ、「お前も負けずに偉くなるように」といわれていました〉(『私の半生・修養雑話』)
〈剣道は、高等一年(注:現在の小学校5年生)の半ば頃からはじめ、その頃も毎日というのではないが、続けて稽古しておった。道場があるわけではないので、地面で稽古をするのである。裏の空地とか、近所の黒沢さんの庭などでやったり、空家の畳を取り払って道場のようにしたところで、寒稽古などもやった。父の外に、時々新田郡から廻ってこられる木部という先生、阿部という先生などからも教わった。東京からは真貝忠篤先生も見えて、寒稽古をして下さった。高野佐三郎先生は、桐生の方へは時々見え、本間三郎先生は、新宿(注:清治が生まれた群馬県山田郡新宿村。現・桐生市)にも時々見えられました。
この頃桐生の劇場で、榊原鍵吉先生の撃剣会があったが、私はそれへ出て試合をしたことがあった。村の祭の時、ブーブードンドン鳴物入りで客を呼んでは、撃剣や薙刀鎖鎌の試合を見せる見世物小屋が、飛入り勝手ということなので、私はそれにも飛出して行って、大いに打負かしたことがあった。この時は、父母から、
「そんな所へ濫りに飛出すようなことは、将来あるもののなすべきことではない。軽はずみというか、考え不足というか、今後はよく注意しなければならぬ」と戒められた〉(同)
アキレス腱断裂と稽古再開
高等小学校卒業後、清治は前橋の群馬県師範学校に進学。ここでも剣道に熱中し、3年時には校内一の腕前となった。その後清治は、東京帝国大学内に置かれた臨時教員養成所を経て沖縄の中学教員となり、さらに明治40年10月、東京帝国大学法科大学の首席書記に就任した。清治が剣道を再開したのは講談社を設立する前に雑誌「雄弁」を創刊し、大学事務と二足の草鞋で大忙しの日々を送っているころだった。
〈久しく剣道を休んでいる。何の修行に限らず休むのが一番悪い、今から又はじめても、仕方があるまいと思ったが、何! 上手下手は兎も角も、毎日必ずやってみようと決心して、少しずつやり始めた。自分では或る程度出来るつもりでいたが、何分にも私の稽古は田舎稽古で、姿勢も、竹刀の握り方も一つ一つ矯め直さなければならない。丁度そのころ、木下寿徳先生が大学の剣道師範であった。
先生は、私が沖縄へ行く少し前に、沖縄中学の剣道教師をしておられたので、そんな関係もあって、いろいろ批評を伺うことも出来、悪いところなど深切に注意していただくことも出来た。何事によらず悪い癖は、これを直すことが容易なものではない。恐るべきは悪い癖である。自分には何か悪い癖はないか、一時も早く直さねばならぬと、この時分剣道によって、痛烈深刻に感じさせられました。
どうもあの癖も直らない、この欠点も直り難い、兎に角それらに苦心しつつ一生懸命にやりました。ところが、何分急に激烈な運動を始めた上に、やれば負けたくはないし、無理もする、といったようなこともあったのでしょう、ある日とうとうアキレス腱を切ってしまった。帝大病院の整形外科の厄介になり、片山博士その他の先生方の手術を受け、その後当分の間はギプス繃帯をして、自宅に引籠って療養をしなければならなくなった。
この数十日の引籠り中に、いろいろ物を思わせられた。現在及び将来に亙っての様々の省察が、その主なるものであったが、これが又、私にとって、どんなに為になったか分りません。茲に、私の精神的一大革命が行われたのであります〉(同)
清治がアキレス腱を切ったのは明治45年。その前年に講談社を創立して「講談倶楽部」を創刊し、大正2(1913)年に大学を辞職して出版業に専念すると、怒涛のような日々がはじまった。事業は急成長を遂げたものの、大正10年ころ清治は心臓と腎臓を病み、静養を余儀なくされることになる。清治が剣道を再開したのは、肋膜を病んだ中山博道範士が稽古に励むうちに完治したという逸話に刺激されたからだった。
〈私は十五年前、帝国大学の道場に於て、踵の腱を切った。最早一方の足は廃物同様で、ものの用に立つまいと思った。それに心臓と腎臓とを病んで、一時はむずかしい位の状態であった。顔は青膨れに膨れて、身体中が常に懶(ものう)い。然るに、この中山範士のお話に感激して、一二年前から健康の回復に苦心して、今日では、木剣を振り、時折は面籠手を着けて、少年相手に剣道を楽しむ事も出来るようになった。(中略)久し振でお目に懸る知人などは、近時の健康を喜んで下さる、というよりか、余りの変化にむしろ驚嘆されるという有様。木剣を振る毎に、竹刀を動かす毎に、寿命がだんだん延びて行くように思われる。あまりの愉快さに、この道が一番の若返り法で、今年よりは逆に年を取るのだなどと、家人に気焔を吐いて居る次第である〉(『野間清治言志録』)
野間清治 略歴
1878年(明治11年)12月17日~1938年(昭和13年)10月16日