剣道と野間清治

目次

剣は万道に通ず

次に、清治が息子の恒との剣道にまつわる会話を記録したほほえましい文章を紹介しよう。「剣は万道に通ず」という信念を持つ清治は、家族との団欒の場で息子を質問攻めにしながらも、つねに人生の指針を求める貪欲さがあった。その姿勢が「雑誌王」と呼ばれるほどの成功を収める原動力だったのかもしれない。

「剣道に教えられる」

『野間清治言志録』
引用符

毎晩、私は自分の子供に、

『どうだった、今日は道場で何か話はなかったかね』

そう尋ねるのを例として居る。そして道場に於けるお互い同志の話、殊に先生の言われたことなどを聴く。

それが大変私の為にもなる。また楽しみでもある。

『今日、先生が、こんなことを言われました――立上る前に勝敗の半分は決ってしまう――と』

成程、成程……総べては準備だな。気構だな。成功も失敗もこれで決ってしまうのだな。

『先ず勝って而して後戦う』古人は善いことを言い遺されたものである。

剣道の話ではあるが、私には、それが直ぐ事業の道、処世の道に、ピンと響いて来るのである。

引用符
引用符

『手で勝つのだ、足で勝つのだ、腰で勝つのだ、頭で勝つのだ、腹で勝つのだ、口でも勝つのだ、眼でも勝つのだ――そういうことを仰しゃいました』

いかにも……四肢五体、悉く勝敗の具ならざるはない。結局は全身全霊である。一指一髪の末にまで全生命を打ち込むことだ。これは善いことを聴かせてもらった。

引用符
引用符

『それから先生が、某君に向って、もう君くらいになったら、眼の配り方、特に眼威という事を考えなさい、と教えられました』

そうか、本当にそうだ。眼威という事、これが大変必要だ。更に意味を拡大してこんな事も考えさせられた。商道にも、処世道にも、眼の配り方、眼の着け方、眼力、眼威、透徹した考察力、心眼を開くこと――実に尊い言葉であると思う。

引用符
引用符

『今日は何か獲物はなかったか』

『甲先生がこんな事を申されました。「大勝の所に大敗あり、大敗の所に大勝あり」――説明し難い、自分でよくよく考えなさい』

『乙先生は、一少年に向って言われました。君は道場で日々神前に、お辞儀をするが、ただお辞儀をするのですか、それとも何か心に祈念するのですか……無意味のお辞儀であってはならぬ。道場に於て長上に敬礼するのも亦同じことです』

総べて剣道の話、而も悉く万道に通ずるものがある。

引用符
引用符

『剣尖をもっと利かせなさい、剣尖が利けば敵は近づき得ない。剣尖だけで、敵の剣も敵の心も十分これを制することが出来る。相手によっては特に剣尖を利かせる必要がある。剣尖には力も位も宿るものだ、智慧も人格も表れるものだ。相手とこれで戦い、先ずその気を砕き、心を破り、構をくつがえす工夫もしたいものである』

処世上にも、同じことが言えるのではなかろうか。

引用符
引用符

『厭な相手ほど為になる、進んでぶっつかれ、そうすると厭な相手など終には無くなる』『苦手苦手、上手上手と対(むか)って行かなければならぬ』

上達には苦手にぶっつかること、上手上手と稽古を願うことが第一である。未熟な時ほど相手に好き嫌いが多い。

引用符
引用符

『惑ってはいけない、心を動かしてはいけない。昔から如何なる場合に於いても、平常心、不動心と教えられて居る』

惑ったら打たれるし、惑っては打が出ない。打っても当らないし、当っても切れない。

引用符
引用符

『敵が来そうもないと思う事は大禁物、何時来てもよいという備が肝腎だ』

孫子も『来らざるを恃まず、待つあるを恃む』と言って居る。

これは敵とばかり見なくともよい。いろいろの災難とか不幸とかいう事に当て嵌めて見て、大いに戒めねばならぬ。

引用符
引用符

『ただ稽古するだけでは進みが遅い。毎日一時間ほど、いろいろ自分で工夫しなさい』

簡単な言葉だが、意味は実に深長である。昔から修行の為に山に籠って工夫を凝したとか、一室を設けて思念工夫したとかいう人も少くない。近頃でも禅堂とか静坐室とかに籠って、工夫の時間を設けて居る人もある。或いは時々地下の一室に入って、自分が今死んで冥土にやって来たと仮定して、娑婆で為すべかりし事はなかったかなどと、反省し工夫するという人さえあると聞いて居る。

引用符
引用符

『昔から弟子も亦我が師なりと言って居る』これも先生のお言葉。

玉と玉とでは磨けない、石で磨けるのである、他山の石で磨けるのである。粗悪な石で磨けるのである。世間の交際でも、悪い人、劣った人によって、修養上、益を得ることが少くない。昔からこの意味で『教うるは学ぶの半ば』などいう言葉もある。考えように依っては、環境悉く何も彼も自分の師である、自分の師となすべきである。

引用符
引用符

『ここぞという時は思い切って飛び込みなさい。びくびくでなく身を捨ててやりなさい』今日の先生のお言葉であった。

家康公曰く『事の将(まさ)に成らんとするや大胆不敵なるを要す』と。

いざという時は全身全力、命を投げ出してやるべきである。然らざれば折角成るべきものが成らずにしまう。

引用符
引用符

『神の御照覧という考で常に試合せよ』これもよいお言葉である。

外国にある一人の音楽師が居った。ある日彼が音楽を奏して居ると、通りかかった人がいとも妙なるその調に魂を奪われ、恍惚としてしまった。そして『あなたはその音楽を誰に聞かせて居るのか』と問うた。彼は、静かな口調で『私は人に聞かせて居るのではなく、神にお聞かせして居るのである』と答えた。成程彼の音楽は気高いものであった。剣道にしても、その他の事にしても全くその通りで、人に見せるのでなく、神様に御覧を願う積りでこれを行ったら、それこそどんなに高い、どんなに聖(きよ)い尊いものになるか分からない。

引用符