剣道と野間清治
目次
受け継がれた信念
恒は小学校を卒業後中学には進まず、清治独自の教育によって育てられた。特に剣道では父の期待にみごとにこたえ、昭和9年の天覧試合府県選士の部で優勝。その著書『剣道読本』が刊行されたのは、惜しくも恒が早逝した3ヵ月後、昭和14年2月のことである。その冒頭に掲げられた文章は、父の信念をそのまま剣道の実践者として表現したものだった。
「何の為に剣道を学ぶか」
野間恒
〈(前略)実際に於て現代では、戦争というような特別の場合以外は、剣戟(けんげき)を交うる機会も殆どありませんし、機関銃とか、ピストルとか、兵器としては剣よりも遥かに進歩したものがいろいろあるのでありますから、ただ単に敵を斃し身を護るのが剣道の目的であるというならば、それは時代錯誤であると一笑に附されても仕方がないのでありますが、剣道にはもっと高く、もっと深い精神的のものがあるのであります。しかし之を得ようとするには、やはり、敵を斃し身を護る武術としての立前を離れることは出来ないのであります。
白刃一閃、身首処を異にする底の、殺すか殺されるかという真剣な剣道の修行からこそ、深く高い道の体認、精神的の解悟が得られるのであります。
これを簡単に『体育』と片附けてしまうことは、剣道を単に一種のスポーツと見ることで、それは当らないと思います。
こう申したからといって、それぞれのスポーツの優れた点、体育のほかにも精神的の目的のあることを認めない訳ではありません。ただ武道は死生を賭する場合に用いられるものでありまして、その点がスポーツと異なるのであり、そして其処に武道の真価があるのであります。即ち死生を賭するという武術の立前を閑却するならば、剣道の価値は甚だしく減殺されるものであるということを強調したいのであります。
従って『体育』と『修養』との両方面から剣道を見るのも結構でありますが、要するに、如何なる場合にも武術としての立前を忘れては、真の剣道を体得することは出来ないのであります。そうは申すものの前述の通り現代では、実際に真剣勝負をするということは殆どありません。それではどうしたら生死を賭けた真剣勝負により近き精神状態を味わい得るか、武術としての剣道を活かし得るかというと、それは勝敗を重んずるということであります。武道は勝敗を第一とせねばなりません。勝敗を度外に置くという考えも、時に必要な場合がありますが、勝敗を死生と心得て、たとい竹刀の試合であっても、敗けたならば命を取られたのであると感ずることが肝要であります。
そして、どうしたら勝てるかと、工夫し考えるところに道があるのであります。いい換えれば、こうすれば勝てるという、その手段方法を有形にまた無形に思念し工夫し、やがてこれを体得する、それが道であろうと思います。
『道』という語には術という意味もあり、手段方法という意味も含まれておりますが、更にこれを深く考えますと、神意とか天則とか真理とかいうことにもなるのであります。
この神意とか天則とか真理とかに合することが勝利を得る道であって、勝敗の理を究むれば自ら其処まで到り得るものであろうと思います。この境地は仏教の所謂(いわゆる)『菩提』ということであり、『悟』ということでありまして、剣によって人生の意義を悟り、更に大にしては天地の理法を悟り、宇宙の真理に通達することが、斯道究極の目的であると申しても宜しいでありましょう〉