紀元二千六百年奉祝天覧武道大会
昭和15年6月18日~19日昭和13年秋、初代社長・野間清治、2代目社長・恒が相次いで亡くなるという悲劇に見舞われたものの、野間道場には創立者の遺訓を守ろうという気概が満ちていた。
大日本雄弁会講談社剣友会は昭和14年、第18回皇道義会武道大会および第1回全日本官庁実業団体試合で優勝し、翌年3月には有段者だけで206名が在籍。『物語 講談社の100年』によれば、昭和12年の社員数が500名(少年社員を含めると900名)とあり、剣道はまさに講談社の「社技」として定着していたことがわかる。
野間恒が優勝した天覧試合から6年。この間、盧溝橋事件によって日中は全面戦争に突入し、国家総動員法が公布され、ノモンハン事件が勃発するなど、戦時色は日に日に強まっていた。時あたかも昭和15年は皇紀2600年。これが戦意高揚のために絶好の大義名分となり、『昭和天覧試合』の記述もそうした時代背景を色濃く反映したものになっている。
六月十九日の朝、今日も、済寧館の太鼓は、 鼕々 と鳴る。武道大会二日目である。午前七時五十分集合、玉座に対し奉りて最敬礼、つづいて皇軍将士の武運長久を祈念する為、総員黙祷、終って八時かっきりに、演武開始の号令下る
この大会には弓道が加わり、剣道の試合は指定選士の部、府県選士の部ともに2日目からとなった。指定選士の部32名、府県選士の部には満洲代表が加わって52名が出場している。
指定選士の部には野間道場師範の増田真助が宮内省の指名を受け、府県選士の部には東京予選を勝ち抜いた講談社剣道部員の望月正房が出場。ともに優勝候補と目され、師弟そろっての栄冠が期待された。
[第2日]
府県選士の部 予選~準々決勝今回の予選はまず3人もしくは4人のリーグ戦16組に分かれ、各組1位が決勝トーナメントに進むという形式で行われた。望月は第9部で長野の学生・荻原富久二、三重の小学校教員・打田晃道と対戦する
東京の望月正房選士は、野間道場四天王の一人。東京の予選大会は、他府県と違って、群雄、雲の如く集って居る。此の大会に於て、彼は他に一本も授けなかった。一剣、無人の野を行くが如く、無疵のまま此の大会に出場する資格を得た勇中の勇である。今年、二十八歳、錬士四段の腕前。物具つけた彼の構には、寸分の隙もなく、野間道場特有の猛修行によって鍛えられた鋼鉄の如き体躯。一身是れ万城である
望月は、上州の産、上州は剣聖上泉伊勢守秀綱を出して以来、剣の国として知られて居る。(中略)剣風は彼を指導した増田真助に、そっくり其儘で、増田の感じがある。進退の自由自在な為、遠間にかまえても、思うように働くことが出来る。加うるに、彼は、相手の太刀捌を研究の上にも研究し、もうこれでよしと云う自信がつく迄は、あれやこれやと工夫し、錬直し、而して後に場に上る程,細心周密な処がある
初戦、望月は大会最年少の荻原が胴にきたところを受け止めて面で一本先取。二本目、持田盛二師範直伝の得意技が出る。
荻原、苛立ってきたが、望月は、悠然として居る。刀を正眼にかまえ、
『そら』
と、敵を誘うたが、敵はなかなかもって進撃しようともしない。
此時遅く、彼時早く、望月、トンと踏出して、左片手をぐいと伸し、
『突』
と出た。みごとな突、寸分も手元の狂わぬ突、敵の面垂を突いて、此の技は、満場をハッとさせた
初戦に圧勝した望月は、続く打田との試合でも胴を押さえての面、激しい打ち合いからの胴を連取。順調に予選を突破した。
〇望月 メツ― 荻原
〇望月 メド― 打田
決勝トーナメント1回戦の相手は岡山の小学校教員、矢田義彰。勢いに乗る望月が面返し胴、面を見切っての面で二本勝ちを収めた。
準々決勝で当たったのは佐賀の師範学校生、緒方文雄。ここまで望月の相手は4人全員が20歳そこそこの若手である。これまた望月が出小手、出端面の二本勝ち。
望月は東京予選から天覧試合準々決勝まで、相手に一本も許さない完勝で勝ち進んだことになる。
〇望月 ドメ― 矢田
〇望月 コメ― 緒方
指定選士の部 予選~準々決勝
指定選士の部は持田盛二が優勝した昭和4年の天覧試合と同様に、まず4人ずつ8組の総当たりが行われ、各組1位が決勝トーナメントに進出する形となった(昭和9年の天覧試合指定選士は16人)。
増田真助は指定選士32人中、大阪の若林信治と並んで最年少の40歳。
増田は優勝候補の一人、敵と相対するや、快隼の餌物を襲うが如く、直ちに相手の欠点を見ぬいて、素速く躍りかかる。眼の疾いことと、技の迅いこととは、独特の長所。加うるに、多年野間道場の荒稽古で叩きあげた腕前である。その実力は、十目十視、何人と雖、これを認めて居るのである。
聞くが如くんば、彼は、生来虚弱であった。
『剣道でも、始めたら、幾らか達者になるであろう』
と、実兄の友人某剣客が、しきりに、修行をすすめた。其の勧告に従い、明治四十四年十一歳の時、本郷真砂町の有信館道場(中山範士経営)に入門したのが、修行の第一歩。それからは、三十年近く、倦まず、撓まず、天下の剣豪にぶつかって行って、技を磨き心を錬って、現在に及んだのである(ちなみに増田の本名は貞之輔で、「真助」と改名したのは師である中山博道の指示だった)
予選リーグ1回戦。増田は福井県警察部の岩越正に対し、弟子の望月と同様、いきなり得意技を決める。
彼は、今、敵に対して、小手を攻めている。岩越も技を出したが、いずれも死太刀となる。増田は、片手突に出たが、十分でない。岩越、小手に打って出たが、是亦十分でない。渉り合って、刀と刀と相触れたが、増田離れぎわに、面打に出た。依然として技が決らなかった。
彼は、更に、攻込んで行って、もう一度、
『突』
と、おめいて、打って出たが、岩越、この時体を退いた。増田、これにのって、左片手をもって、敵手の右半面へ打込む。これ増田の得意中の得意である。
此の横面、ついに技となって、一本を得た
勢いに乗る増田は続いて捲小手を奪い、まずは1勝。
2戦目は優勝候補の一角と目された武専教授、黒住龍四郎。一本目は黒住が右半面にくるところを応じて面、二本目は同じく小手にくるところを引きながら捲いて下から小手を決めた。“増田は、何の労苦も費さず、眼前の強敵を退けたのであるが、その技の巧みさと、迅速さとは、満場注目の標的となった”。
3戦目の相手は静岡高校・県立工業学校剣道教師の杉山和民。両者立ち上がりざま、増田の小手と杉山の面が交錯し、わずかに早かった杉山の面あり。一本先取されたものの、あくまで冷静な増田は出小手二本を奪って逆転勝ちし、決勝トーナメントに駒を進めた。
〇増田 メコ― 岩越
〇増田 メコ― 黒住
〇増田 ココ―コ 杉山
準々決勝で迎える相手は警視庁・早稲田大学剣道教師の柴田万作。東京同士とあって、お互いに手の内を知りつくした“剣友同志”の対戦である。一本目、柴田が一歩退いたところを、増田が竹刀を回すようにして小手を決め、二本目は柴田が捨身で面に飛び込むところを増田が体を反らしてかわし、右前に踏み出して面を一撃。二本勝ちで準決勝進出を決めた。
〇増田 コメ― 柴田
[第3日]
『昭和天覧試合』には「選士の感想」が収録されている。選手たちにはあらかじめ、「大会前の準備心身の修錬に就て」「大会に出場しての感想」「試合に就ての反省特に勝因敗因に就て」などの課題が与えられおり、型通りの公式コメントが並ぶ中で、増田真助の寄稿は異彩を放っていた。増田は専門家という立場にありながら、選手としての苦悩を正直に綴っている。
準備に就いて私の場合を申し上ぐるならば、先ず竹刀の選び方に苦労しました。
それで竹刀は百五十八匁(注:593グラム)、百六十二匁(608グラム)、百六十三匁(611グラム)と三本揃えましたが、扨てこの三本の中何れに決めたものかという段になってどうにも決定しかね、非常に苦しみました。
日により時によって、僅か一匁違ったものでもその三本がそれぞれ意の如くなったり、ならなかったりすると云う工合で、この選択の苦しみは自分でも驚いた程であって、三月末から試合一週間前迄、悩み続けた事を特に記したいと思います
竹刀の重さが鍔を含んでいたとしても鍔を除いて550グラム前後。片手横面を得意とする増田としてはかなり重い竹刀という印象だが、それはともかくとして、2ヵ月以上もグラム単位のレベルで竹刀選びに悩んでいたというのは、なんとも正直な告白である。天覧試合のプレッシャーは、現在では想像もつかないほどのものだった。
指定選士として通知のあった二月一日から、試合直前までの間に於ける心持はどうであったかと云えば、心が常に種々変化動揺したことは事実であって、重苦しい憂鬱な、不安の日が続き、試合の日が間近になるにつれ、愈々緊張が加わるせいか益々不安の度が増すように感ぜられました
大会の10日ほど前、“何となく大自然に接したくなった”増田は、日光を訪れ、二荒神社に参拝すると御神楽の奉納があり、少女の舞を見ることになった。
少女は緩やかに剣をかざして舞っている、差す手引く手一上一下一進一退すべて平々淡々自然の裡に道に叶い、作法の 肯綮 に中っているものでありましょう。些かのよどみなく舞は進められる、私は粛然としてこの思わず、倦まず、滞らざる、舞の手振りを凝視し、少女の平かなる気持、安静なる心境に想到して、是ある哉と頷いた、すると奇しくも今迄の不安は忽ち雲散霧消して、吾が心月は涼しく照り渡り、心界は豁然として開け朗かになったのであります
2日ほど日光で過ごした増田は“思わぬ天啓を得て”帰京し、祖先の墓、氏神の祠に詣でて“心の不安は残りなく吹き飛んでしまい”、おのずから竹刀の問題も解決して試合に臨んだのだった。
府県選士の部 準決勝
準決勝第1試合では宮城の萱場照雄が愛媛の吉岡真吾を面2本で下した。
萱場は31歳。角田中学時代に剣道を始めて二段となるも、卒業後は軍隊に入って中断。25歳で警察官となって稽古を再開した。左利きの萱場は左右の腕力があまりにちがうため左上段に構えて、右手をほとんど使わなかった。萱場に二刀を勧めたのは、その試合ぶりを見ていた二高剣道部師範の乳井義博。乳井は高野佐三郎の高弟で、戦後は全日本選手権を3度制した千葉仁をはじめ幾多の剣道家を育てた名伯楽である。二刀の名手としても知られ、萱場は乳井の指導のもとに逆二刀を磨いた。
この大会でも萱場は優勝候補の一角で、予選から準決勝まで相手に一本も許さず決勝進出を決めた。
第2試合は望月正房対竹下義章。
竹下は鹿児島第一師範出身で小学校教員、31歳。第一師範では森正純の指導を受け、5年時に全日本中等学校剣道大会決勝で巣鴨中学と対戦。大将戦で森寅雄に敗れている。望月は森寅雄の1歳上で、野間道場では毎日のように稽古をともにした仲。望月が寅雄の応援に行って、竹下との試合を見ていてもおかしくない。
一本目。竹下が飛び込んでくるところを望月が回りこみつつ、遠間からの横面を決める。観戦記には“望月は、突技と同じく横面が得意である”とあり、師匠・増田譲りの片手横面だったと思われる。二本目は竹下の小手を余して面を決め、望月もまた萱場と同じく、無傷で決勝に進出した。
此の試合、立合の始めから終に至るまで、双方とも、同一場所に静止して居らなかった。絶えず、打つか、打たれるかして、右に左に、動きまわって、全力をつくして、戦ったのである
〇望月 メメ― 竹下
指定選士の部 準決勝
昭和4年の天覧試合以来、宮内省は指定選士の部に「候補者」として予備のメンバーを指名していた。この大会では武専教授の佐藤忠造が出場不能となり、繰り上がった大森小四郎が準決勝まで勝ち上がっていた。
大森は京都府警察官から武専の講習生となり、矢野勝治郎範士の家に寄寓して修行。大会当時は49歳で、京都府警・京都薬専剣道教師となっていた。観戦記によれば大森は、“冷厳水の如き矢野翁までが、一点の非を打つことが出来なかった程”の人格者で、“重厚無類の剣”と評している。
増田と大森の一戦は、まず大森が面返し面で一本先取。
『二本目』
審判の声を受けて、両雄、その陣地に立ち返ったが、増田が、この一刹那の心のみだれが、容易ならぬものだった、ほんの三歩四歩、後退するだけだが、その距離が恐しく長かった、同時に妄想雑念が、一度に沸き起って、どうにも仕様がなかったと云って居る。
このときの増田の心中は、本人が「選士の感想」で詳しく明かしている。
さて準決勝大森選士との試合に当って、初太刀を打たれたる一瞬には、不覚にも心の動揺を感じたのであります。
乃ち打たれて直ちに立直る迄の一瞬、実に云い知れぬさまざまなことを考えました。邪念妄想電の如く脳裏に群り去来しました。
邪念の悪魔は頻に『上段を取れ』と云う。
この一刹那こそ、誠に重大なる危機であったのであります。私は日頃考うる所があって試合には上段を用いないことにしている、然るに悪魔は頻に『上段をとれ』と誘惑する、然し吾が信念は『迷うな動くな』と命ずる、私は此処ぞとばかり本人に『辛抱第一、辛抱第一』と号令し、妄想魔を撃退して立直った時は、再び従前の平々淡々たる気持になり得て、纔に危機を脱し試合を進めたのであります
立ち直った増田、得意の片手横面をみごとに決めて一本一本の勝負に持ち込み、最後は面の二段打ちで逆転。ついに師弟そろっての決勝進出が実現した。
〇増田 メメ―メ 大森
府県選士の部 決勝
望月は準々決勝に勝った時点で、決勝の相手は萱場になることを想定していた。前夜はまんじりともせず、自分で逆二刀の形をとって、萱場を打ち込むための工夫をしたという。
いよいよ来るものが来た。府県より選出されたる五十余人、熱戦力闘の後、ここに勝残って、聖上の御前に於て、晴の試合を天覧にそなえる両雄。一は奥州の産、萱場照雄選士。他は、東京の代表、望月正房選士である。
時はこれ、皇紀二千六百年六月二十日。
処はこれ大内山の翠につつまれた済寧館大道場。
陪観の文武大官は、綺羅星の如くに居流れて、此の両雄の勝敗いかにと、眼を瞠って居る間に、毅然として場に上る。審判、表は持田盛二範士、裏は斎村五郎範士
試合は壮絶な打ち合いとなった。望月の片手突き、萱場の面。望月の胴、萱場の面、望月の逆胴、萱場の胴。萱場の右半面を体を沈めて外した瞬間、望月は倒れそうになって床に片手をつく――。
乱闘となったが、萱場、手をかえして、長剣をもって、左半面を覗いつつ、
『ええい』
と、裂帛の気合と共に斬撃した。あわれ、此の一刀、 徒打 となり、萱場がハッと気抜けのした途端。
『ここぞ』
小刀をもって居る萱場の右小手へスポリと一刀。望月の此の一撃、ようやく決り、持田審判。
『小手あり』
と手をあげた
観戦記が「乱闘」と書いているとおり、二本目の声がかかっても両者は激しく動き回った。望月は2度にわたって足がらみを掛けるが、がっしりした体躯の萱場はびくともしない。
萱場は望月を東のほうに追い込んで大刀一閃、みごとな胴を決めて一本一本の勝負。
試合時間は十分を越えて、死闘の様相を呈してきた。
観戦記に望月の述懐が残っている。
『喰うか、喰われるかです、私は夢中でしたが、場内を数十回もかけ廻って、迚も乱戦であったと、後で聞きました。でも自分で覚えて居るのは、敵手を隅まで追込んで、一旦構えをとき、中央に戻って剣を構えようとしても、どうしても竹刀が上らなかった、見ていた人は、丁度一息入れて居るように思ったそうですが、私は、それどころか、どうにもならかなった、眼に止ったのは、敵手の小刀だけで、長いのは、見えなかったくらい、汗で眼が眩んで了ったのです、もし聖上の御前でなかったなら、竹刀をすてて、彼処に倒れて了ったかもしれません』
こうなると、平生の稽古が役立ってくるのである。野間道場の立切稽古は、端なくも彼をして、長時間の奮闘に堪えしめ、無意識の間にあっても、長剣をふりあげて、萱場の逆胴をつづけ打ちに打ちまくった。稍々下っていたので審判は、これを採らなかった。
彼等は、今、玉座東よりの地点にあって、相対していたが、折柄萱場が打って出ようとする起り頭を狙い、望月は、渾身の力をこめて、
『突』
おめいて、一突き。左片手を十分に伸ばして萱場の面垂を突く。
『突あり』
持田審判、この突を採って、凱歌は、一刀の望月に掲る。満場、この一瞬の快技に魅せられ、張りつめていたものが、一時にズーンと下って行ったような感じである
試合時間、実に15分20秒。
現在の全日本剣道選手権などと比べればさほど違和感はないかもしれないが、昭和4年の天覧試合では、指定選士の部でも府県選士の部でも、9割以上の試合が5分以内に終わっていることを考えれば、まさに死闘と呼ぶにふさわしい試合だった。
〇望月 コツ―ド 萱場
指定選士の部 決勝
引きつづいて、指定選士決勝戦である。増田選士と津崎選士。増田は、今優勝した望月の師範である。彼が日夕、手にかけて指導した門弟が花々しく勝を占めたので、師たる彼の喜は、蓋し云い知れぬものがあったに相違ない。彼は、此の満腔の喜を胸に湛えて、欣々如として、光栄の演武場に上る
津崎兼敬は武専教授で当時45歳。準決勝では警視庁師範の小野十生と対戦し、“やや小野に分があるのではなかろうか”というおおかたの予想を覆して決勝に進出した。津崎が得意としたのは担ぎ技。小野に対しても、担ぎ面と担ぎ小手で快勝している。
電撃作戦をもって、小野を退けた津崎兼敬選士は、東よりすすむ。
苦戦して、大森を降した増田真助選士は、西よりすすむ。
最敬礼の後、式礼もおごそかに、陣頭に立つ。審判、表は高野茂義範士、裏は小川金之助範士。(中略)
増田は、関東に於ける若手の中堅。津崎も、関西に於ける少壮の中核。剣をとって、立上りさま、津崎は早くも得意の担ぎ小手に出て、面を脅し、増田は、津崎が剣を担ごうとする出端を狙った。
もとより、斥候戦に過ぎなかったが、此の勢をもって、戦局は推開された。
津崎の面。
増田の面。
共に成らず。増田の面に来るを津崎、逆胴をかえしたが、成功しなかった。
この時、津崎、担ぐように、調子をつけて、打って出ようとした。眼の疾い増田、何条、この瞬間を見逃すべき、相手の手元の上った小手に向って、ビーンと一撃。
『小手あり』
高野審判の声、凛乎としてひびく
二本目も津崎が担ぐところを見逃さず、増田が小手を決めてみごと優勝。
〇増田 ココ― 津崎
観戦記は野間道場師弟の快挙をたたえてしめくくられた。
それにしても、何たる武運のめでたさ。門弟子勝ち、師も亦勝つ。師弟打揃って、準決勝に進出したことが已に驚異的事実である。それが又、更に両者とも、決勝戦に進出したと云うのは、愈々以て、驚異的事実である。況や、師弟、轡を並べて、優勝したるに於てをや。かくの如きは、元より予期した事ではなかったであろう。師弟、打揃って、天覧試合に出場した上は、最善最上の力をつくして、野間道場の名を辱しめたくないと云う心持はあったであろうが、両者が優勝することは、全く意料の外にあったのである。
望月は、自己の戦終って後、控席にあって、我師の決勝戦を陪観した。そうして、増田師範の勝った刹那は、汗と涙とが、一緒になって流れて仕様がなかった。
彼は、席を立上ろうとしたが、どうしても、腰が上らなかった。萱場との一戦に、彼は、心身を疲らして居る上に、意外な此の事実の展開を目撃し、感激の極度に達したのである。歩行不可能な為、彼は、ようやく場外に這出したと言って居る