御大礼記念天覧武道大会

昭和4年5月4日~5日

野間清治は『昭和天覧試合』発刊にあたり、巻末に「光栄に感激して」と題する長文の謝辞を寄せている。その文面からは、版元としてという以上に、熱烈な剣道愛好者としての高揚が伝わってくる。

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私の家は、微賤乍ら、代々武道に関係し、私自身も幼少から之を習い、長男にも甥にも之を学ばしめ、邸内の少年達にも稽古を致させ、又これが為に二三の道場をも設け、斯道の先覚の指導をも仰ぎ、斯くして聊か武道の精神を理会し、その偉大なる效果を体験すると共に又斯の如き人間精錬の道を遺し呉れたる先人の精進に感謝し、これも畢竟、日本国なればこそ、日本国民なればこそと、今更ながら、わが御国体の有難さ、大和民族の光栄を、沁々と感得しつつあるものであります。

されば、この、前古未曽有ともいうべき昭和天覧試合の御催を承っては、謂わゆる手の舞い足の踏む所を知らざる、大歓喜、大感激に打たれざるを得ませんでした。(中略)

兎角するうち、宮内省では昭和天覧試合の記録を公刊なさるに就て、図らずもその発行を小社に委托さるる事になりました。

全く存じも寄らぬ事であります。望外の光栄であります。(中略)平生の念願たる出版業者としての御奉公の一端をも尽し得るならば、小社の面目之に過ぎずと、誠感誠荷、謹んで恩命を拝受した次第であります。蓋し武道を以て立った私の祖先の霊も、必ずや感激を一にしたことであろうと信じます

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宮内省からの委託を受けて、清治はただちに臨時の部署を設置。十数名の体制を組んだうえに、社長自ら編集の陣頭指揮をとるという熱の入れようだった。一代で出版王国を築いた清治にとっても、生涯忘れ得ぬ一冊となったのではないだろうか。

[第1日]

天覧試合の開催当日。東京は夜来の雨が上がり、水気を帯びた皇居の新緑が薄曇りの空に映えて、目にしみ入るように鮮やかだった。午前7時前、栄えある天覧試合の出場者たちが、紋付袴、フロックコート、学生服などそれぞれの正装に身を包んで、陸続と平河門をくぐって行く。その数、剣道柔道合わせて166名。武道史上空前の大会の幕開けである。

天覧試合開催にあたり、関係者が苦慮したのは会場の選定だった。決勝戦が行われた2日目の観客は2200人。皇族、閣僚、枢密院議長に貴族院議長、陸海軍の重鎮に各省高官など国家の枢要な人物たちを含む大観衆を収容するには、当時の済寧館は手狭であり、柔道だけの会場として使用された(現在の済寧館は昭和8年に落成。その後の天覧試合は柔剣道ともに済寧館で開催された)。

最終的に剣道の会場として選ばれたのは平河門内旧三の丸の 覆馬場(おおいのばば) 。屋内の馬場だけに630坪の広大な空間に柱もなく、試合場や観覧席の設営に最適だった。

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南側の中央部、場の正面には台覧席の設けがあり、金泥の屏風を背景として、御質素なる御椅子が置かれたる外、前面には紫地に白く菊花御紋章を染め抜きたる縮緬の幔幕を張りわたし、之を紫色の太紐にて絞り上げたるばかりにて、何の御装飾も拝せないが、おのずからなる荘厳の気に早くも襟を正さしむるものがある(以下注記のない引用は『昭和天覧試合』より)

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この晴れ舞台に「指定選士」として出場したのは32名の専門家で、その中には最高峰の範士が8名含まれていた。その後の天覧試合には範士が出場しておらず、その点でも昭和4年の天覧試合は別格といえるだろう。32人の平均年齢は数えで49歳。45歳の持田盛二はやや若いほうで、朝鮮総督府警務局師範の職にあった。

予選リーグ

初日は4人ずつ8組に分かれての予選リーグ。持田は自身と同じく優勝候補の一人と目される大島治喜太と同じ組となった。

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満場の眼は、この時一斉に輝いた。何故か? 云うまでもなく、この一戦の捲起す真剣味と興味に思い至ったからであろう。

事実この両士は、共に今あぶら ののりきった盛り、持田が明晳の剣に対して大島は覇気漲れる太刀筋、その打下す太刀風は、彼の胸奥に鬱勃たる熱気を想わしむるものがある。

而も、これまで、東京、京都に於て顔の合った当時の戦績に見ても、一度は持田勝ち、一度は大島の勝に帰して、殆んど互角の勝負なれば、果たして如何にと見るうちに、両士は(しず) かに立って互いの構え。しばしは気分の争い、乃至秘策の洞察戦に睨み合ったが、果然、戦いは大島が面の猛襲によって火蓋を切った。(中略)

時に来たる持田の得意、片手突きはずれると見る一瞬の変化、 倐忽(しゅくこつ) 敵の小手を斬って一本。先ず満堂をうならし、更に飛ぶ太刀は矢と迅く、再び敵の小手をプツーリ! 静かなれど凄味ある剣勢を示して勝つ。満堂恍惚。さしもの一戦ついに持田の勝に帰した(時間四分二十五秒)

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持田の剣は冴えわたり、一本を許しただけで予選リーグ3連勝。

準々決勝に駒を進めた。

〇持田 ココ― 大澤藤四郎

〇持田 ココ― 大島治喜太

〇持田 メコ―コ 納富五郎

[第2日]

この日の東京は快晴。新聞各紙の朝刊は大会初日の記事で埋め尽くされた。

いよいよ天皇が会場に姿を現す瞬間が訪れ、関係者の緊張は極限まで高まった。

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天皇陛下には陸軍式御通常服を召させられ、鈴木侍従長御陪乗、略式自動車 鹵簿(ろぼ) を以って午後零時五十分御車寄発御、丸池辺りより二之丸口、主馬寮広場、天神橋を過ぎさせられ、やがて会場仮御車寄に着御、白根特務委員の御先達にて会場南側なる玉座に玉歩を運ばせらる。時に午後一時。

『出御』

警蹕(けいひつ) の合図に満場一斉に起立、最敬礼裡に龍顔いとも麗しく出御遊ばされ、しずしずと玉座に着かせ給う

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準々決勝

持田が登場したのは準々決勝第3試合で、相手は武専(武道専門学校)出身の古賀恒𠮷。

古賀は「捨身の諸手上段」から晴眼の持田を激しく攻め立てた。

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『行くか!』何さま、古賀の得意諸手上段の面が行くか、持田の片手突きが飛ぶか、そしてその突きはずれるとき一転、小手の妙手は飛ぶか?――果たして如何と見るとき早く、見よ、古賀の悍烈無双なる諸手上段は、持田の面上目がけて又もや斬って下された。刹那‼ 持田冷静之を打払いざま、白蛇一閃切尖三寸、見事に古賀の小手を斬って粛然たり。ここに古賀も奮然として起ち、鋭鋒忽ちにして小手を斬って報復、一本一本の勝負となって、古賀いよいよ勇を鼓し、精悍の剣、縦横に馳駆しつつ機を見て猛然飛込面に踏込む時、出端を潜って胴一本、持田鮮やかに胴を抜いて満場をうならす(時間三分十秒)

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〇持田 コド―コ 古賀恒吉

準決勝

準決勝の相手は植田平太郎。持田より8歳年上で、四国を代表する名剣士である。

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相対することしばしの後、植田の小手迅くきまって先ず満場の胆を奪ったが、持田冷徹水の如く、焦らず、迫らず、虚に衝く剣は例の得意、片手突き矢と迅く繰出して敵の咽喉を突き貫く。即ち勝負――ここにまた接戦になるかと思いの外、如何なる隙か、持田の静剣、パッと植田の小手を斬って、持田しずかに勝つ(時間三分十五秒)

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〇持田 ツコ―コ 植田平太郎

決勝

こうして迎えた決勝戦は、近代剣道史上もっとも名高い一戦となった。

持田の相手は高野茂義。高野佐三郎が剣の才を見込んで養子にした上段の名手である。

9歳年上の高野茂義は167センチ、90キロの巨漢。一方の持田は173センチの長身痩躯。高野が満鉄師範ならば、持田は朝鮮総督府警務局師範と、すべてにおいて好対照の二人だった。

試合がはじまると両者は中段に構え、大事をとってか容易に剣先を合わせず2分が経過した。聞こえるのは二人が摺り足で進退するかすかな音だけで、声もない。

緊迫した展開を破って動いたのは高野のほうだった。

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さて、高野は、やおら、対士の気合をはかりつつ、先ず例の上段に振りかぶった。持田はピタリと晴眼につけ寸分の隙もない。

高野は、ジリジリジリジリと相手を追込まんとする。(中略)

高野、更に進まんとすれば、持田、巧みに場をまわりこんで位置一転、玉座に近く相対する時、機やありけん、高野の剣、

『面!』

ズーンと斬込んだが、間、遠くして浅し。

もとよりこれ持田が長身の利、評を許さば、この長身の敵に対してはもう七八寸の間をつめるの要なかりしか。

と見る、一閃、また一閃、思いきや両者の剣は、この攻防に刃をからんだ。

素早くパッと飛びすさった。

その一瞬、持田の剣は、矢と迅く敵の咽喉に飛んだ。

はずしてパッとのけぞり気味、持田の突きは敵の咽喉を去るまさに三寸である。

『わァッ』われ知らず吐く観衆の吐息はドッとどよめきとなる。

ここに両雄、更にまわって元の陣。

高野は、またしても上段、而かも今の突きに備えてか前の構えを充分にして、更にジリジリと進んだが、もとより聞えし剛将なれば、尚も一歩サッとその間を縮めんとして、踏出しざま右拳刀柄をしごくが如く動くよと見る間に剛剣一閃。颯と斬下したる一刀、持田危うしかと見ればこはいかに、途端に持田、用意ありとばかりに間をはずしつつ受け止めた。高野は憤然として、更らに面に一剣飛込まんとする時、持田の体パッと電光一転稲妻の如く右に飜りざま、

『胴!』高野の胴を斬払って静かに顧みる。快音と共に間髪を入れず、

『胴あり!』表審判高野佐三郎の宣告。

何さまこは持田氏の得意、敵を遠間におきながら機に開いて胴を斬る名人を前にしては、高野氏が上段攻めの剛戦法もついにその効を奏しないのか。

満場わァッ! とただ感嘆の声を放つのみ。(中略)

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持田静かに鋭く中段の構えに、高野の上段を次第に演武台東南隅に追い込めつつ相寄る、されど高野は、更に怯まず、またしても上段の構え雄渾に、

『面!』『小手!』と強襲した。

が見よ、慧敏なる持田は、巧みに敵の攻勢を捌きつつ、更に遠間に敵を牽制しつつある一瞬間、高野隙もあらば一撃敵を粉砕せんものと、機を(ねら) いつつ刻々間を刻んでアワヤその大刀一撃ズンと踏込まんとした、瞬刹、

『エッ!』突如持田の足は猛然床を一踏、剣尖一閃したかと思う間に発止とばかり高野の挙小手を斬り取った。

わあッ! 満場の気より発する唸り……

『小手あり!』高野審判の左手は閃いた

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〇持田 ドコ― 高野

この観戦記によれば、一本目は高野が上段からの連続技で面に打ち込むところを持田が胴に応じたように読める。ただし同書に収録された高野佐三郎の寄稿には中段からの面とあり、審判として間近で見た証言だけにこちらのほうが事実と思われる。

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持田範士対高野範士の試合は、最初持田範士攻勢に出でしも效なく機を見て守勢に転ず、高野範士中段より敵の面を見込み打込みたるも所謂半信半疑の所ありて奏效せず却って胴に応ぜられ一本取らる。その後高野範士上段より面を打ちしも採られず最後に高野範士上段に取り攻勢に転じたる際左籠手を持田範士より打ち勝敗決す。前日の試合に高野範士右脚を(きずつ) け進退活動思うに任せず打下す大刀悉く心気力一致に欠くる所ありしよう思われたり

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いかにも講談社の本らしく、『昭和天覧試合』には当時の人気講談師6人が「誉れの選士出世講談」と題して、剣道柔道の名勝負を新作講談に仕立てて寄稿している。

「持田範士と高野範士」を担当したのは桃川如燕。もちろん講談なので誇張は当然のことながら、文面からは当事者たちに丹念に取材して書かれたことが伝わってくる。ここでも一本目は高野が中段で小手から面に打ち込むところを、持田が身を引きながら胴を払ったとあり、高野佐三郎の記述を裏付けている。

桃川も高野の敗因として足の怪我に言及し、物語を次のように締めくくった。

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試合がすんだ後のこと、高野老先生が、

佐『茂義も、お陰で好い修行を致しました』

と、そう 仰在(おっしゃ) って居るが、なかなか出来ない事で御座います。

又お勝ちになった持田範士も、あんなに鮮かにお勝ちになっても、決して御自慢をなさらない。京城へお帰りになる際、一寸お目にかかって、御喜びを申しあげると、(中略)持田範士が、

持『あの勝負は、高野さんが足を痛めて居たもので、それで私が思わず勝を占めたに過ぎません、君は高座で、いろいろと弁ずるであろうが、どうか必ず共に私を賞めて下さるな』

と仰在って、大層謙遜をして居られました。勝って傲らず、しとやかに、つつましやかに、陣を引くというのは、何という奥床しいことで御座いましょうか

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